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公衆衛生医師(保健所等医師)のインタビュー02

想定外を想像し、
仕組みやルールをつくる、
クリエイティブな仕事

大阪府寝屋川保健所所長
宮園 将哉さん

「救急医になりたくて医者になった」という宮園将哉さんが公衆衛生行政医師の道に進んだのは、どちらかといえば消極的なきっかけだったそうです。ところが、いざ働いてみると、全国初のシステムの立ち上げや、臨床時代の元上司とタッグを組んだ災害時医療救護マニュアルの策定、オールジャパンで挑んだ新型インフルエンザ対策など、大きな出来事に次々と遭遇。現在は、保健所長として、地域のステークホルダーとの調整、組織のマネジメントに奔走しています。

救命救急から公衆衛生へ

公衆衛生の分野にはもともと興味があったのですか?

いえ、まったく興味はなかったんです(笑)。医師になりたいと思ったきっかけが、救急医療だったので、もともと救急にしか興味がありませんでした。

私の出身大学である自治医科大学は、医師が足りていない地域で働く医師を育てるためにつくられた大学なので、卒業生の多くは山奥や離島などのへき地に行きます。ところが、私の地元の大阪府はへき地が存在しません。それで、大阪府では「医師が足りていない分野で働いてもらいたい」と、当時は公衆衛生か救急医療かの二択でした。私は救命救急医になりたかったので、公衆衛生のほうにはむしろ行きたくなかったんです。

大阪府に就職し、府立病院の救命救急センターで研修をはじめられたわけですが、ずっと救急で……とはならなかったのですね。

そうなんです。私が思い描いていた救急は、「時間外に来た患者さんは全部診る」というものでした。自治医大のある栃木では大きな医療機関が少なく、それが当たり前でした。ところが、大阪に戻ってみると、ほとんどの患者さんは外傷で、脳卒中や心筋梗塞といった疾患の患者さんを診ることはほとんどありませんでした。大阪では大きな医療機関が多いため、内因性の救急疾患はそれぞれの診療科が診て、それ以外を診るのが救急だった。思い描いていた救急とは違っていたんですね。

なおかつ、研修医2年目のときに同僚が病気でダウンしてしまい、本来2人で回すはずだった週6日の当直を1人でこなすことになりました。そんな状態だったので救急の現場がだんだん嫌になってしまい、モチベーションが上がらないまま仕事をこなすようになってしまったんです。そんななか、5年目のときに「府庁で公衆衛生の仕事をしないか」という話がきました。断る理由はなかったので「わかりました」と受け入れた……という経緯なので、きっかけはちょっとネガティブだったんです。

全国初の医療機関情報システムの立ち上げ

府庁で働き始めていかがでしたか?

平日も家に帰れて、土日休みが普通で有休も取れるなんて、なんていい職場なんだ、と(笑)。しかも、府庁があるのはオフィス街なので、昼休みには、みんな、日替わりでいろいろなところへランチを食べに出かける。医師免許を持ちながらこんな生活ができるのか、と衝撃でした。

とくにうれしかったのが週末の休みです。もともと国内旅行が好きで、学生時代には全国を旅してまわっていたので、休みを取れることがすごくうれしかったですね。当時は学生時代以上によく出歩きましたが、今思うとヒラ職員だからできたことなのかもしれません。

医師は、保健所長を含めて管理職になることを求められるので、優秀な人ほど早くから管理職につき、自由は少なくなります。でも、私の場合、若いうちに行政に来たので、自由な時間を確保しやすかったのはラッキーでしたね。

最初は、働きやすさや職場環境の良さに「いいな」と思ったのですね。仕事自体がおもしろくなったのはいつ頃からですか?

最初に配属されたのは医療計画を主に担当する部署だったのですが、たまたま大阪府の救急医療情報システムを更新する年でした。一方で、私が赴任する前から、医療機関の情報を公開するために紙媒体の「病院マップ」を作ろうという話があり、ちょうどインターネットが普及し始めた頃だったので、インターネット上で救急医療の情報も含めた医療機関の情報を提供するシステムを作れば、紙媒体と違ってリアルタイムに情報の更新ができていいのではないか、ということになったのです。

こんなシステムは今でこそ当たり前ですが、当時は全国初の試みでした。大阪府で作ったシステムのプラットフォームを他府県でも活用してもらうことも視野に、情報の項目をどんなものにするか、それをどうカテゴライズするのかなど、一から考えていく必要がありました。しかし、情報項目などは医師でなければわからないことも多かったため、私もかかわることになったのです。

行政の分野で働き始めたばかりにもかかわらず、全国初のプロジェクトに関わることができ、すごく楽しかったことを覚えています。もちろん、初めての試みなので反対する声もありましたが、上司に同行して関係団体のもとへ行き、プレゼンをして理解してもらうということを一通り見させてもらい、良い勉強になりました。それに、最初は猛反対していた人が、いざ出来上がると「大阪はこんなシステムを作ったんですよ」と喜んでいるのを見たときはすごくうれしかったですね。

全国初のプロジェクトが、大阪府庁に移った一年目にあったのですね。

さらに翌年には大阪府の災害時医療救護マニュアルを作るプロジェクトにもかかわることになりました。これは、救命救急センター時代の上司が発案したものだったんですね。元上司の思いを応援し、実現する手伝いができたことも貴重な経験でした。その頃には、「この仕事もいいな」と思うようになっていた気がします。

ひとつの決断が多くの人の命を救う

感染拡大を防ぐための社会的隔離

新型インフルエンザにおける発症日別患者数の状況

大阪府内学校別の発症日別発症者数の推移

その後、府庁や大阪府内の保健所でさまざまなプロジェクトにかかわられていますが、なかでも印象深いものはありますか?

2009年の新型インフルエンザですね。5月の大型連休明けに成田空港で国内第一号の患者さんが見つかったのがはじまりで、翌週には兵庫県で、その翌日には大阪府で、それぞれ海外との直接の接点がない患者さんが見つかりました。そのため、海外との接点のない患者さんも検査をしてみると、実は府内に患者さんが点在していることがわかり、ひょっとしたら大阪府全域に広がっているかもしれない、と。

当時の知事は橋下(徹)さんで、実はその一年前に、尾身(茂)先生(地域医療機能推進機構理事長、元WHO西太平洋地域事務局長)と会う機会があって、そのときに同席していた磯(博康)先生(大阪大学大学院医学系研究科社会医学講座公衆衛生学教授)と笹井(康典)先生(大阪府こころの健康総合センター所長、元大阪府健康医療部長)とともにあるグラフを見せていたんですね。

1918年にスペイン風邪が初めて流行した時の死亡率を表したもので、何も対策をしなかったフィラデルフィアでは多くの死者が出た一方、流行りはじめに学校や映画館などの人が集まる場所を閉鎖したセントルイスではそれほど死者は増えなかったそうです。そしてその翌年に新型インフルエンザが発生したときに、橋下さんがそのことを覚えていて、他の部長たちの反対を押し切って大きな決断をしてくれたんです。

人が集まる場所を閉鎖したのですか?

患者さんのほとんどが中学生と高校生だったので、府内のすべての中学校と高校を1週間休校にして、小学校や幼稚園は患者さんが出ている地域に限って休みにしました。その結果、発症者数は一斉休校が始まった月曜日をピークに減っていき、1週間が過ぎるころにはほぼゼロになったのです。

このときは結果的には弱毒性のウイルスでしたが、ヒト‐ヒト感染する感染症は人が集まるところを閉鎖することで感染拡大を防げることが実証されたデータの一つになりました。私自身も、公衆衛生で多くの人の命を救うことができるんだとわかり、非常に勉強になりました。

当時、宮園先生はどんなお立場だったのですか?

保健所勤務を経て、大阪府庁の地域保健感染症課という感染症を担当する課の課長補佐をしていました。あのときは、医師会をはじめとする医療関係者、府庁や厚生労働省をはじめとする行政関係者など、ありとあらゆる人が関わったオールジャパンの総力戦でした。

インフルエンザとはいえ、新しいタイプのウイルスなので、どれぐらいで患者さんの隔離を解除していいのか、従来の季節性インフルエンザと同じ対応で大丈夫かどうか、誰にもわからないわけです。厚労省や他府県の担当者に電話をして確認を取りつつも、相手も決断できないことはわかっているので、「この対応でいいですよね?」と言い合いながら、みんなで走りながら考えていました。

感染症も含めて危機管理というのは想定外を想像することなので、いかに想像力を働かせられるかが問われます。それと、AプランでいけなかったときのBプラン、その次のCプラン……とオプションを考えておくことも大事ですね。

保健所や大阪府の看板を背負っている

2010年からは大阪府内の保健所の所長を歴任されています。

最初に所長になったのが39歳のときでしたが、実はその前の所長さんが急に辞めることになり、期せずして所長のポストが回ってきたのです。でも正直なところ、最初の1、2年は失敗の連続でした。

たとえば、私が初めて所長を務めた泉佐野保健所は、事務室が1階と3階に分かれていて、所長室は別のところにありました。最初、両方の事務室を公平に見なければいけないとの思いから所長室にいたところ、「若い所長なのになんで所長室に籠っているんだ?」と思われてしまったんですね。今となっては少し考えればわかる話なんですが、初めての所長職に気負いすぎていろいろなことを勘違いしていたのかもしれません。

他の職員とのコミュニケーション不足が一番の問題だったと反省し、それ以降はみなさんの話をよく聞く一方で、所長としての自分の考えをしっかり伝えていくことを心掛けるようにしています。その後も小さな失敗はときどきありますが、その都度みなさんの助言を受けて軌道修正をしていきながら仕事をしています。

今は寝屋川保健所の所長をされていますが、1日の働き方はどのような感じですか?

会議、打ち合わせが多いですね。寝屋川市は2019年に中核市に移行するので、職員も増えていて、今、約50人の所属のマネージャーという立場なのですが、所としての意思決定が必要なものはすべて私のところに話がきます。

そのときに普段から意識していることは、現状を踏まえた課題や今後の目標を立てた上で、それを実現するための合理的な道筋や具体的な方法などの戦略を決め、それを関係者全員で共有することです。つまり、「今の課題は○○」「今年度の目標は△△」「それを実現するために、Aを年末まで、Bを年度末までに実行する」といった目標や戦略とその大まかな期限などをみんなで共有する。そうすると、みんなの目つきが変わり、「あ、そういうことか!」「まずはそこから始めればいいのか!」と表情が明るくなるのがわかります。

それから、対外的な仕事も多いですね。ひとまわり以上も年上の医師会長さんや病院長さんらと行政機関の長として対等に話をするなど、保健所や大阪府の看板を背負って仕事をしなければいけない場面が多いので責任は重いのですが、成果も大きいなと思っています。関係者や関係機関をうまく巻き込みながら、プロジェクトを進められたときにはうれしいですし、この仕事の醍醐味かなと思います。

医者を捨てて公衆衛生に進むのではなく、臨床能力は必須

宮園先生は、公衆衛生医師として「全国初」のプロジェクトや出来事に多く遭遇されていますよね。公衆衛生医師、行政医師の仕事とはどういう仕事だと考えていますか?

以前、ある臨床医の先生から「私たちは治すのが仕事ですが、先生はつくる仕事ですね」と言われたことがあります。たしかに臨床では一からつくることはあまりありませんよね。「そうか、公衆衛生や衛生行政は創造することができるクリエイティブな仕事なんだ」とそのとき腑に落ちました。

よく公衆衛生は「予防するための仕事」と言われます。たしかに結果的には予防につながっていくのですが、私自身の感覚としては、仕組みをつくる、システムをつくる、ルールをつくるために働いている、クリエイティブな仕事というイメージが強いです。

では、公衆衛生医師、行政医師に求められることとは?

いつの間にか巻き込まれ(笑)、「社会医学系専門医」制度の立ち上げにかかわることになり、社会医学系専門医協会の委員もさせてもらっているのですが、専門医制度の立ち上げにあたって、「社会医学系で働く医者はこういう資質をもっておかなければいけない」ということを関係者で話し合い、文章化しました。

社会医学系専門医協会「研修プログラム整備基準」

この検討のときに私が特に重視したのは、「医者なんだから、基礎的な臨床能力は必要」ということです。これまで公衆衛生医師というと、「医者を捨ててきている」と思われがちでしたが、「医者としてのアイデンティティは、臨床に携わっていなくても持ち続けてほしい」ということは、私たちがこだわったところです。

公衆衛生については、昔の自分もそうだったように食わず嫌いが多いんじゃないかと思います。やってみたら結構おもしろいので、ちょっとでも興味があればとりあえずどんなことをしているか調べてみて、それで面白そうならやってみたら、とみなさんにはぜひ伝えたいですね。

宮園 将哉(みやぞの・まさや)さん
大阪府寝屋川保健所所長

1996年自治医科大学卒業後、大阪府に就職。大阪府立病院の救命救急センターで研修・勤務した後、2000年から大阪府庁で行政医師として勤務を開始。その後、府内の保健所や府庁勤務を経て、2010年39歳のときに大阪府泉佐野保健所の所長に就任。以来、複数の保健所の所長を歴任し、2018年4月より現職。

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