その後、府庁や大阪府内の保健所でさまざまなプロジェクトにかかわられていますが、なかでも印象深いものはありますか?
2009年の新型インフルエンザですね。5月の大型連休明けに成田空港で国内第一号の患者さんが見つかったのがはじまりで、翌週には兵庫県で、その翌日には大阪府で、それぞれ海外との直接の接点がない患者さんが見つかりました。そのため、海外との接点のない患者さんも検査をしてみると、実は府内に患者さんが点在していることがわかり、ひょっとしたら大阪府全域に広がっているかもしれない、と。
当時の知事は橋下(徹)さんで、実はその一年前に、尾身(茂)先生(地域医療機能推進機構理事長、元WHO西太平洋地域事務局長)と会う機会があって、そのときに同席していた磯(博康)先生(大阪大学大学院医学系研究科社会医学講座公衆衛生学教授)と笹井(康典)先生(大阪府こころの健康総合センター所長、元大阪府健康医療部長)とともにあるグラフを見せていたんですね。
1918年にスペイン風邪が初めて流行した時の死亡率を表したもので、何も対策をしなかったフィラデルフィアでは多くの死者が出た一方、流行りはじめに学校や映画館などの人が集まる場所を閉鎖したセントルイスではそれほど死者は増えなかったそうです。そしてその翌年に新型インフルエンザが発生したときに、橋下さんがそのことを覚えていて、他の部長たちの反対を押し切って大きな決断をしてくれたんです。
人が集まる場所を閉鎖したのですか?
患者さんのほとんどが中学生と高校生だったので、府内のすべての中学校と高校を1週間休校にして、小学校や幼稚園は患者さんが出ている地域に限って休みにしました。その結果、発症者数は一斉休校が始まった月曜日をピークに減っていき、1週間が過ぎるころにはほぼゼロになったのです。
このときは結果的には弱毒性のウイルスでしたが、ヒト‐ヒト感染する感染症は人が集まるところを閉鎖することで感染拡大を防げることが実証されたデータの一つになりました。私自身も、公衆衛生で多くの人の命を救うことができるんだとわかり、非常に勉強になりました。
当時、宮園先生はどんなお立場だったのですか?
保健所勤務を経て、大阪府庁の地域保健感染症課という感染症を担当する課の課長補佐をしていました。あのときは、医師会をはじめとする医療関係者、府庁や厚生労働省をはじめとする行政関係者など、ありとあらゆる人が関わったオールジャパンの総力戦でした。
インフルエンザとはいえ、新しいタイプのウイルスなので、どれぐらいで患者さんの隔離を解除していいのか、従来の季節性インフルエンザと同じ対応で大丈夫かどうか、誰にもわからないわけです。厚労省や他府県の担当者に電話をして確認を取りつつも、相手も決断できないことはわかっているので、「この対応でいいですよね?」と言い合いながら、みんなで走りながら考えていました。
感染症も含めて危機管理というのは想定外を想像することなので、いかに想像力を働かせられるかが問われます。それと、AプランでいけなかったときのBプラン、その次のCプラン……とオプションを考えておくことも大事ですね。