公衆衛生医師(保健所等医師)のインタビュー01

「国際レベルのダイナミックな仕事」
に憧れ、公衆衛生の道へ

茨城県保健福祉部長
木庭 愛さん 2018/11/30 UP!

2003年にアジアを中心に蔓延したSARSのニュースを見て、「国際レベルで公衆衛生に携わりたい」との想いを抱いた木庭愛さん。その後、厚生労働省に入省し、WHOのIHR(国際保健規則)の大改正時に日本の担当者として国際会議に参加したり、WHOに3年勤めるなど、まさにグローバルに活躍したのち、現在は、茨城県の保健福祉部長として県内の医療や健康を守る仕事をしています。それぞれの場所での想い出を交えつつ、公衆衛生医師という仕事の魅力についてうかがいました。

SARSのニュースがきっかけで厚労省に

公衆衛生や行政の分野で働こうと思ったきっかけは何ですか?

学生時代には臨床や研究以外の進路は考えたことがありませんでした。きっかけは、SARS(重症急性呼吸症候群)です。

2001年に医学部を卒業し、都内の病院に勤めていた03年頃、SARSがアジアを中心に瞬く間に広がり、一時は公衆衛生の危機と言われました。私が勤めていた病院でもいつなんどきSARS疑いの患者さんが入ってくるかわからないため、いろいろな対策を講じていました。そんななか、陣頭指揮を執って感染症の危機を収めたWHOという存在に関心を持ち、国際レベルで公衆衛生にかかわるようなダイナミックな仕事がしたい、と思うようになったのです。それで、公衆衛生に進路を定め、卒後3年目に厚生労働省の入省試験を受けました。

臨床とは違う仕事、職場環境に戸惑うことはありませんでしたか?

入省前、勇気を出して厚労省に話を聞きに行ったら、対応してくれた人事担当者が同じ大学の出身で、入省後も馴染めているか、何かと気にかけてくださいましたし、配属された課でも課長はじめ先輩方が、何でも教えてあげるよ、といった温かい雰囲気を作ってくれたので、とてもすんなり溶け込めたように思います。

仕事自体も、戸惑いよりも、臨床とは違う全く新しい世界でチャレンジしているというワクワク感が大きく、スケールの大きな仕事に携わっているというやりがいや充実感を日々感じながら、夢中で過ごしていました。

臨床は患者さんと一対一で向き合うことによるストレートなやりがいがありますが、公衆衛生で相手にするのは社会です。「みんなが健康でいられるように」という究極のゴールは同じですが、対峙する相手が違う。SARSのニュースを見て感じた「ダイナミックな仕事に携わってみたい」という夢に近づけたように感じました。

入省後半年で「ジャパン」代表として国際会議に

厚労省に入省されてからのお仕事でとくに印象に残っていることはありますか?

いろいろありますが、最初に携わった結核・感染症対策はとくに印象に残っています。入省してすぐに結核予防法の改正があり、私はBCGの接種期間の改正も担当しました。科学的エビデンスやWHOの勧告、世界各国での実施状況をもとに、「4歳まで」だった接種期間を「生後半年まで」に改正したのですが(※)、変わることに対する抵抗は強く、非常に苦労しました。

BCGの効果と達成しようとする目的を考えると、あるべき姿であると信じていましたが、批判も多く受け、自信をなくすこともありました。しかし、長い目で見て、赤ちゃんを重症の結核から守ることに少しは貢献できたのかなと感じています。ただ、素直な気持ちでそう思えたのはだいぶ時間が経って自分の子どもがBCGを受けたときでした。そのときは、「制度がちゃんと定着したんだな」と感慨深かったです。

※現在は、乳児期に接種するワクチンの数が増え、接種スケジュールを考慮に入れて「生後1歳まで」に変更されています。

そういう意味では公衆衛生はスパンの長いお仕事ですね。

それと、感染症対策は国際的な業務も多く、2005年にWHOの感染症対策の基本であるIHR(International Health Regulations、国際保健規則)の大改正があったんですね。その日本の担当として、ジュネーブやマニラで開かれる国際会議に参加し、改正作業に携わらせていただきました。

WHOの加盟国が一同に集まる会議に送り込まれ、ジャパンの札を置いて対話するのは貴重な経験でした。本国の代理で参加しているわけですから、自分の一存で主張を曲げるわけにはいきません。各国の利害や異なる考えがぶつかり合い、最後は朝4時まで喧々諤々の議論が続きました。でも、「健康を守る」ことは、どんな国でもどんな利害があっても万国共通の目的なんですよね。最終的には、強い主張を持っていた国々も妥協し合うことができ、皆がなんとか合意できるものを作り上げることができました。すべてが終わり、朝5時頃、始発のバスでホテルに戻った時の疲れとやりきった感の混ざりあった感覚は今でもよく覚えています。

異なる考え、文化をもつ国が集まり、意見をまとめていくのは大変な作業でしょうね。

複数国の強い主張がぶつかり、平場での調整が困難な個別の論点については、全体会議と並行して、関心の強い国々による作業グループを設け、集中的に論議を交わしました。そうした作業グループの多くで実質的なとりまとめをしていたスイスの大使がいて、妥協点の見出し方に感心し、学ぶことも多くあったのですが、実は、その10年後、私がWHOに出向したときの直属の上司が、そのスイス人の方でした。公衆衛生や国際保健は狭い世界で、こうしたびっくりするようなめぐり合わせもしばしばあります。

働きながら、留学、子育ても

その後、ロンドン大学に留学されたのですね。

一人目の子どもを産んだあと、ロンドンに留学させてもらい、感染症の勉強を2年間しました。行政施策との関連を考えながら学べたこと、いろいろな国の留学生からそれぞれの地域での感染症対策を聞け、実際の施策を踏まえて意見交換ができたことは、業務経験を積んでから行ったメリットですね。

そして、ロンドンで二人目を出産した一週間後に帰国しました。7月に帰国し、年度内は育児休暇をいただき、翌4月から統計情報部に復帰。厚労省は女性の職員も増えているので、子育てをしながらも無理なく働けるポストもあり、私も、定時で帰って子どもを保育園に迎えに行くという生活を3年ほどさせていただきました。

2012年から3年間、WHOで勤務されています。それはご自身の希望ですか?

もともと国際レベルの公衆衛生に携わりたいと思って、厚労省に入ったので、人事調書では海外勤務の希望を出していました。そして、子どもが3歳、6歳になったときにWHOの話をいただいたのです。

現地で実父に育児を手伝ってもらおうと思っていましたが、父にはスイスの滞在許可がおりず、子ども2人と私の3人で行きました。初めは不安が大きかったですが、慣れてくるとWHOの勤務環境も良く、現地のナニーさんもとても良い方に恵まれ、日本にいるよりもずっとリラックスして、仕事も子育てもさせていただいたように思います。

2014年のエボラ流行のとき、WHOに

WHOではどのようなお仕事を担当されたのですか?

マラリアやリーシュマニア症、アフリカ睡眠病など「顧みられない熱帯病」と総称される、いわゆる開発途上国の風土病のマーケットは貧しい人たちなので、薬の研究開発が進みません。そこで、WHO内にその問題に対応する部署ができ、私もその一員として加わりました。

一朝一夕にはいきませんが、途上国の医師や研究者の頭脳流出を防ぐために、自国に戻って後進を育てることを条件に奨学金を出したり、途上国内でも南アフリカやブラジルのようにある程度力をつけた国もあるので、南南協力を行って技術を学べるように支援したり、その一環で東ティモールにてキャパシティビルディングの会議を行ったこともありました。ブータンやモルジブなど、近隣のアジア諸国からいろいろな方が参加するのですが、それぞれの国で困っていることを直にお聞きすることができ、貴重な経験でした。

その後は?

資金管理の部門に移りました。WHOは活動資金の大半を加盟国からの任意拠出金(寄付)に頼っている組織です。そのため、ドナーとしての加盟国との関係や調整が非常に重要で、その対応をする部署があります。その部署で、私はオーストラリアや中国、韓国、日本などWHOの西太平洋事務局に属する加盟国を担当していました。

一番印象に残っているのは、2014年のエボラ出血熱の流行です。14年夏には公衆衛生上の危機であるとWHOが宣言し、対策が本格化し、私たちのチームもいろいろな国に財政支援をお願いするなど、資金調達に努めました。

どのように進めるのですか?

各国の担当者に必要なものを伝え、お金や物、あるいはサービスという形で支援していただき、必要なところに送るのですが、国際社会からの注目の高まりを反映して、通常はWHOへの積極的な財政支援をいただいていない国からも多数のオファーをいただきました。寄付金の他に、マレーシアからは特産のゴムを使った手袋、日本からは車やPPE(個人防護具)などの寄贈も受けました。

いただいた物資をもっとも有効に活用できる配布先を、WHOのロジスティックチームと協議し、コーディネートするのもなかなか骨のいる仕事でしたね。私もリベリア、シエラレオネに赴き、現地の状況をみて調整してきたこともありました。

また、スリランカなど通常は支援をされる国からも寄付のオファーをいただき、非常事態の早期収束に向けて国際社会が同じ気持ちでいることを改めて感じました。普段はプライベートと仕事をきっちり分けて、休むときはしっかり休む国際公務員も、このときばかりは休みを返上し、みな文字通り全力で取り組んでいました。

フットワーク軽くチャレンジできるのが地方行政の醍醐味

現在は、保健福祉部長として茨城県庁にお勤めです。

2017年8月から、厚労省からの派遣という形で、茨城県の保健福祉部長をさせていただいています。茨城は人口10万人あたりの医師数がワースト2位ですので、いちばんの課題は医師確保とその前提としての医療提供体制の整備です。

医療提供体制に関しては、医療機関同士の話し合いの場をセッティングしつつ、うまく機能分担しながら有機的な連携体制を構築できるように協議を進めているところです。

医師の確保のほうはいかがですか?

医師不足と言っても簡単に医学部の定員を増やすことはできませんので、新しい発想で取り組んでいます。たとえば、ハンガリーの大学医学部には日本人の学生さんが300人も学んでいるんですね。そこに着目し、卒業後、日本の医師国家試験に合格したら茨城県で働いてもらえるよう奨学金を差し上げる制度を創設し、すでに来てくださることが決まっている方もいます。今年4月には、知事自らハンガリーに赴き、現地の大学で医学を学ぶ、茨城県にゆかりのある学生さんと意見交換をし、茨城県のアピールをしていただきました。

公衆衛生医師の確保に関しては、筑波大学の先生のご協力を得て、非常勤で保健所に勤めていただく公衆衛生医師のリクルート事業をはじめています。大学院の先生や病院に勤務している先生に、月1回から週1回程度、保健所の業務を手伝ってもらうという取り組みです。

逆に、保健所や本庁に勤めつつ、県立の病院で臨床を継続できる仕組みもあり、現在お二人が利用されています。臨床も行政も、大きな意味ではつながりのある仕事で、それぞれの視点がお互いの業務に活かされることもとても有意義と考えており、こうした環境整備はぜひ進めていきたいですね。

茨城県は公衆衛生医師が少なく、保健所長さんの兼務が多い県ではありますが、少ないからこそネットワークがよく、「茨城を良くしよう」という熱意のある先生が多いと感じています。自然豊かな一方で、東京に近く、いろいろな情報を得やすいという利点もあるので、公衆衛生に興味のある先生にとって、やりがいを感じていただける環境だと思います。

もともとは「国際的な仕事に携わりたい」という想いから厚労省に入られ、今は地域に密着した仕事に移られたわけですが、いかがですか?

まったく別の世界ですが、機動性高く、次々と新しいことにチャレンジできるのは、地方ならではの醍醐味だと感じています。

一方で、どこにいても共通して使うスキルもあります。公衆衛生行政医師は、現場のニーズや科学的根拠に基づいて行政施策を企画立案し、ステークホルダーの理解と納得を得る、国会などの場で決定された施策の執行体制を整える――というプロセスをさまざまなフィールドで行っているわけですが、こうしたことをしやすくするためのネットワークをもつこと、またネットワークを活用して必要な調整を行うことなど、横軸のような専門性がしっかりある仕事です。社会の仕組みに興味がある、あるいは社会に貢献したいという想いのある方なら、とても楽しめ、充実したキャリアが約束される仕事だと思います。

木庭 愛(こば・あい)さん
茨城県保健福祉部長

2001年医学部卒業後、内科医として働いていた03年にSARSのニュースを見て公衆衛生に興味をもつ。04年に厚生労働省に入省し、結核・感染症対策にかかわった後、ロンドン大学留学、二児の出産などを経て、2012年から3年間、WHOに勤務。帰国後、厚労省医薬食品局、医政局を経て、17年より現職

※2018年10月取材:所属やプロフィールは取材当時のものです。

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